notes

ものづくりは金にならない

ふと気付いたことがあったので、まとめてみたい。例によって書きながら考えてしまうので、乱文になるのはご勘弁を。


編集者・作家の川崎昌平さんの漫画『重版未定』が僕はとても好きなのだが、そのなかにこんな一説がある

出版はもう商売にならない。だから稼ごうとしなくていい。文化を創る手伝いをしなさい。
(第14話 「決算」より)

これだけ見ると、ビジネスを忘れた妄言のようにみえるかもしれない。けれど、この重版未定の作中では(経営的にも稼働的にも)非常に厳しい出版の現場の様子が描かれ、夢物語のような隙間は一切見られない。絵はユルいが、話の調子はハードボイルド。はっきり言ってもう、商売としてはかなり厳しいものがあるのだろう、出版業は。

でもこれで、僕は逆に勇気づけられたような気がした。儲からないなら、他で儲ければいいし、儲かる出版と儲からない出版をわけて考えればいいのだ。

作中では、こんなやりとりもあった。

「重版しない本はダメな本なのか?」「重版して儲かって・・・それが何だ?」「1000人の読者が求める本と1万人の読者が求める本は違う」「1万人のために編集すると1000人を見捨てることになる」「1万人が求める本ばかり編んでいたら似たような本だらけになる」
(第15話 「辞表」より)

1万人の読者が求めるものが価値が低いわけではない。むしろ価値は高いだろう。けれど、そこで「こぼれてしまうもの」を大切に見つめることもまた、ものづくりなのだ、という気がしてしまう。


大きなメディアと歩んできた10年

僕は、職場でどちらかといえば大きめのメディア……コンビニ売りの実用系雑誌とか、上場企業のコーポレートサイトとか、そういったものに取り組んできた。デザイン村では目立たないけれど、確実に、世のたくさんの人と間接的にコミュニケーションをしてきた。そういうものの必要性を多少なりとも自分はわかっているつもりだし、真剣にやってきた。必死にやってきた。自分がどれだけいいデザイナーになれているかはわからないけれど、ひたすら向き合ってきたことだけは言える。

自分とは違う生き方をしている人たちの生活へ、いかに情報を届けるか。しっかり売って、続けていくことができるか。そしてその背後にいるいろんな人たちの思いとか人生とか。そういったことの積み重ねで、デザイナーとしての僕はできている。

ただ、そこで自分の中にも「こぼれ落ちていくもの」があることにいつのまにか気付いていた。

イチ生活者としての自分

デザインは自己表現ではない。ほかの誰かや、何らかの課題に対して企て、解決を試みる概念だ。いまさらそれについて語ってもあまり意味がないと思う。…だけれども、デザイナーとしての個人のなかには自我があるし、表現というスキルを社会に行使している時点でなんらかの表現欲求もまた自分のなかにある。人間は透明になれないのだ。透明になれないなかで、「こぼれ落ちていくもの」の行き場がなくなり、溜まっていく。

僕の場合、仕事が偏ってくると、そんな自分のなかのエゴが顔を出してくる。「あたらしいことをやってみたい」「こんな表現を試してみたい」。僕はこれがとても苦手だ。目の前の課題に向き合いたいのに、エゴがそれを邪魔するわけだ。社会と自分の内面を混同してしまいそうになる。そんなとき、僕は同時に違う仕事をやることにしている。規模感や対象メディアの異なる案件を同時に進める。そうすることで、一方で偏った自我が、もう一方で発散され、逆にもとの仕事でも良い結果が出ることが多いと感じる。自分の目を曇らせないために、仕事を掛け持つというスタイルがもう何年も続いている。

デザイナーは聖人君子でも魔法使いでもない。イチ生活者なのだと思っている。

コトづくりは金になる

いまどきのデザインは、可視化されている。これまで感覚的な職人技としてブラックボックスのなかにあったものが、フレームワークとして外部化され、ビジネス文脈で利用されている。僕は、これはいいことだと思っている。デザインという概念自体が評価されているからだ。僕は仕事しか能のない人間だけれど、その生業が社会的に評価されるのだから、当然ポジティブに受け止めている。いいだろいいだろ、デザインっていいだろ、、、としみじみしているわけだ。

そしてそんな可視化されたデザインは「デザイン思考」として一般化され、ものづくりの根っこである「コトづくり」、つまりUXというものの重要性として認知され、ますます広がってきている(僕の友人のひとりはいま“ワークショップデザイナー”として精力的に活動している)。これからのデザイナーは、デザイン的な手技や発想を、非デザイナーと共有することで共創や協働を生み出し、お金=価値に変えていく。いま欧米、特にアメリカではUXデザイナーの給与がうなぎ登りで、デザインの素養を持った役員職は最も必要とされているポストだそうだ。巨大企業がデザインファームを買収するのは珍しいことではなくなった。

お金は尊い。お金は幸せそのものをつくることはできないけれど、不幸を遠ざけることができる、と誰かが言っていた。誰だってお金は欲しいし、お金があればサスティナブルになれる。お金によってうまれたゆとりで、“余計なこと”にも時間を使える。

モノを作るということ

「ものづくり」という言葉を見ると、失われた20年を象徴するような、悪しき日本の文化のような気がするのは僕だけだろうか。ひたすら品質の高いものを作っていれば、認められ、お金がついてくるという発想。モノがコミュニケーションの中心であった時代はそれでよかったけれど、記号消費社会を経て、よりメタな高度情報消費生活が当たり前になった僕たちの21世紀では、もうロートルな響きさえ感じられてしまうのが悲しい。ただ安直にモノを製造するだけでは、もう日本で生きる僕たちに競争力はない。「ものづくり」はお金にならないのだ。

モノづくりは、もはや美徳なのだろうか。僕はそうは思わない。

なぜなら、いま注目され活用されているデザイン思考、つまりコトづくりの発想は、モノを媒介にして発散・定着されるものだからだ。デザイン思考(≒ Service Design)の基本的な原則のひとつに「物的証拠があること」というのがある。つまり、(中間成果物であれ最終成果物であれ)モノを作って考えることの重要性は、今風なスキームにおいてもまったく変わらないのだ。コトづくりと表裏一体のような関係性で、モノづくりの重要性はなにも変わっていない。むしろより重要性を増している。モノを作れるからコトが考えられるのだ。手を動かすことで考えがまとまる。学生時代、柳宗理さんもそう教えてくれた

流されるな、流れろ。

うまく言語化できないのだけれど、人と人との関係性が密=近ければ近いほどそれはモノづくり的になり、一方、よりたくさんの人を巻き込んで動かしていくものはよりコトづくり的になると感じている。デザイン行為を外部化する必要性が低いものは身体的でありモノに寄ってくるし、外部化する必要性が高いものは必然的に概念的になりコトに寄ってくる、ということだろうか。

はじめの話に戻すと、僕の個人的な感覚のなかでは、編集者との“タイマン勝負”である出版活動はかなり「モノづくり」的な行為であるということだ。そしてそれは、正直あまり儲からないかもしれないけれど、僕というイチ生活者にとって必要な行為なのかもしれないなと思っている。

僕なりの言葉で言えば、モノづくりとコトづくりのバランスを取るために、規模の違う仕事を同時並行で進めるスタイルが続いているということになっている…のだろうか。そう、常日頃、このダイナミックレンジをいかに広くとれるかが大事だと思っている。ツールと思想のあいだ、ユーザーとクライアントのあいだ、デザイナーと非デザイナーとあいだ、上流工程と下流工程のあいだ、儲かる仕事と儲からない仕事のあいだ、1万人と1000人のあいだ…。

儲からないのはよくない。ご飯が食べられないからだ。でも、儲かるだけでもきっとだめなのだ。作るだけでもだめだし、考えるだけでもだめだ。

なにも言っていないような結論になってしまうけれど、やっぱりこれが大事なのだと思う。白黒付けずに、行ったり来たり、幅を持って生きる。


ちょっとかっこつけみたいになってしまうけれど、最後に川崎昌平さんの著書『流されるな、流れろ!』から莊子の言葉を引用したい。

言わざれば則ち斉し
── 言わなければ、すべては平等のままでいられる

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