notes
デザインとアートは違うけど語っても意味がない話
よくある問い
デザインとアートは異なる。デザインとは問題解決であり、アートは問いの創出である。
…というのはデザイン教育をかじったことのある人はミミタコな話なわけだけど、それについてひとこと書きたいと思う。
こういう話がよく出てくるのは主に学生や若手社会人の教育現場だ。
デザインは制作/創作行為でもあるので、そこに「制作者としての個人的な思い込みや思い入れ」をのっけてしまい、結果判断を誤るという初歩的な間違いがままある。ので、これは徹底的に指導される。
実際、なにかの制約の中でなにかをより良くするためになにかの設計をすることがデザインの本質であるから、目的を見据えたデザイン制作をしなければ、“なにかをより良く”はならないので、やはりそれは間違っていると言えると思う。
一方、アートは何かというと、一般的には問いの創出だと言われている。
プロテストな問題提起もあれば、個人的な違和感もあれば、素朴な疑問、衝動もあるだろう。それをなんらかの制作をとおして、アウトプットしていくのがアートとされている。
だからデザインとアートは違うし、混同してはいけない、ということだ。
有り体にいうと、有形無形のクライアント=他者に対して行うのがデザインで、自分をクライアントに据えるのがアートと言ってもいいと思う。
ほんとうにそうなのか
しかし、だ。
ここまで書いてきたこと自体は、いわゆるクリエイティブ業界では一般論だし、僕も異論はない。
…のだけど、そこでお話が終わっているように思うのが僕には気にかかる。もっとギロンしようぜということではなくて、このトピック自体に僕は違和感があるのだ。
スペキュラティブ・デザインという言葉があるが、こういう概念が明示化されてきていることが、個人的にとてもリアルに感じる。僕は受託制作と自社サービス開発と社内へのコミットと知人友人へのお節介に区切りをつけていない。僕にとってはひとしくデザインなのだ。
違う。けど意味はない。
たしかにデザインとアートは違う。だけど、それを語ったところで、区切りをつけたところで、よいことがあるのか。
文化をつくるのは、人だ。
結局、食品だって建築だってニュースだってデザインだって、だれかがつくっている。その辺を歩いている誰かがつくっている。
大人だし、社会の歯車としてちゃんと経済をまわしていく意識はある。つまりビジネス的思考は大事だ。ちょーだいじ。それを忘れるとものをつくることは欺瞞になる。
…のだけど、ビジネスをまわしているのは個々人の市井の人々なのであって、それを消してしまっては、僕たちの社会は文化的に貧しくなってしまうんじゃないか。
> ソフトウェアのファーストフード化 — Medium
こういう、「働き方のスタンス」のような、個人としての社会との関わり方はもっと大切にされていいと、僕も思っている。文化は市井の市民がつくる。精神論ではあるけれど、これは情緒や気分の問題で片付けていいことではなくて、僕たちがどう生きるか的な話だ。つまり人として必要な哲学に近い。強く共感する。
僕の場合は「ソフトウェア開発」という文脈ではない意識で仕事をしているので言葉が若干変わってくるけれど、やはり近いことを感じていて、時として仕事に「ノッていかない自分」に違和感を感じることがあるし、それは課題としてかなり真剣に考えて、対応する行動をしている。組織へのコミットであるとか、そういうことだ。
自分のまわりのことすべてをデザインの対象にする
仕事、つまりプロジェクトだけが案件なわけでないと思う。
自分の周囲の、社内的なことでもいいし、地域社会でもいいし、対人関係でもいい。自分に手の届くすべてのことが、デザインの対象としていいんじゃないかということだ。
それはもはや、デザインなのかアートなのか、はたまたそれ以外のなにかなのか、もはやわからない。
だから、デザインとアートの違いを論じること自体、意味がないのだと思う。
これはアートだ、デザインだと言っているうちに、自分にできることをするのだ。