notes

デザインを生業にすることへの自覚(への気付き)

先日、所属する会社の社内研修で、デザインについての講習会があった。いろいろと刺激的な言葉や視点が得られたのだけど、それをきっかけに気付かされたこと、思い出したこと、考えたことを書いてみたい。あまりにも自分の視野が狭く、まだ反芻に近いレベルでしかないのだけれど、どうしても熱いうちにまとめておきたくなった。まとまらない文章になるかもしれないけれど、大目に見てほしい。


情報の美

いきなり過去の話題を差し挟むけれど、最初に僕の学生時代の話をしたい。2003年だから、大学1年か2年の頃だったけれど、当時学部長だった榮久庵憲司先生のツテのツテで、Icograda関連のイベント「VISUALOGUE」にわけもわからず参加した。

世界グラフィックデザイン会議・名古屋:
2003年10月、Icograda(国際グラフィックデザイン団体協議会)の第20回総会に併せ、JAGDAによる企画構成で開催。日本のデザイン史上において、1960年の「世界デザイン会議」以来の規模で実施された。テーマは「情報の美」。世界49カ国から3,800人が参加。

その基調講演だったか、リチャード・ソール・ワーマン(恥ずかしながら当時は全く知らず、ただの太ったおじさんにしか見えなかったのだが…)が著書『Information Architects』を参加者全員に配布するという暴挙を行った。僕は英語もからっきしだし、ただのダイアグラム集、今でいうインフォグラフィック集にしか見えず(しかも掲載されているグラフィックはディテール的にはちょっと粗いというか、アメリカの匂いがした)、ろくに読まず本棚の肥やしにしてしまった。当時の自分には、その他のもうちょっと具体的なアートディレクション・デザインのセッションのほうが面白かったのだ。イベントの全体テーマは「情報の美」だった。当時の僕にはその意味がわからなかった。


デザインを可視化すること

冒頭の講習会で得られた視点について話を戻したい。そこではさまざまなトピックが語られたのだけれど、特に印象に残ったのが「ビジネス」の捉え方の話だった。

デザインの仕事で例えたとき、我々デザイナーとクライアントの間には差異がある。デザイナーにできることと、クライアントにできることにはギャップがあるという意味だ。それは当然なのだけど、その差異の最大化がビジネスなのだという。つまり、デザイナーが提供できる価値と、クライアントが地力で起こせる価値には(我々からすれば)差があって、その差をできるだけ大きくすることがデザインの事業化、つまり商売になるかどうかということらしい。

それは、現実より誇張して大きく見せるということではなくて、その差異の幅の「重要性に気づいてもらう」ことが最大化で、それこそがデザインをビジネスとして行うということなのだと。つまり、デザインについて啓蒙し、デザインの重要性を理解してもらい、デザインそのものの価値を高めることがビジネスである、ということだ。価値の最大化ができれば、結果的にお金はその後についてくる。

そしてそのために、これまで事業として Editorial DesignInformation ArchitectureUser Experience DesignHuman Centered DesignService Design などが行われてきた。つまりデザインをその時々の時勢に合ったかたちで事業化し、商いとして価値の最大化を常に試みてきたということだ。これはすべて、言葉尻は違うけれども、本質的にはひとつの繋がった線でしかなく、同義のものなのだと。

日本において、エディトリアルデザインの重要性を実証しチーム制作による継続的なアートディレクションを根付かせ、情報設計の価値を伝え、ユーザー体験に基づくデザインの観点を示し、人間中心設計というフレームを用意し、ビジネス文脈におけるデザイン思考の実践を行うこと、そのすべてが、デザインの可視化、つまりデザインの重要性・価値を一般に理解してもらうための試みだった。フレームワークとして見えている部分はただデザインが可視化されたものであって、我々デザイナーが倣うものというより、我々が普段から行っている行為をそこに当てはめて提示してあげる=可視化するということこそが重要なのだ。

そこで、情報をビジュアライズするだけではなく、デザインという行為そのものを一般に向けて可視化してきたのが会社の歴史であり、ビジネスそのものなのだ、という理解を僕はした。

デザインを“ひらく”ことへの自覚

VISUALOGUE でのあの試みは、今から言えば Service Design への布石と捉えることもできる。デザインの価値を最大化しよう、認めてもらおう、そういうことをやっていくべきだ、ということだったのかもしれない。そう気づくと当時の自分の未熟さに慄いてしまうけれど、まあ仕方ない。今になってやっと気付けただけでも良しとしておきたい。

件のエンブレム問題で、日本における最大の業界団体は建設的な提言をなにも出せなかった。日本においては、デザインの可視化は体質的に積極的には行われてこなかったということなのかもしれない。この姿勢は、デザインのビジネス化=事業化という意味ではポジティブな未来をつくることにはならないし、もっと僕たちは発言をしていくべき、と捉えたほうがよさそうだ。

ビジネスに乗せるということは、デザイナーではない他者(市場)に僕たちの価値を認めてもらうこと。そのためには、デザインについて考え、発信し続けていく、語っていくことがもっともっと必要なのではないのか。つまりデザインの可視化=デザインを“ひらく”ということが大切になってくるはずなのだ。

デザインの価値をつなげていく

フレームワークやスキームはデザインの外部化であり、可視化だった。これらは、我々デザイナーにとっては使うものではなく、当てはめるもの。当てはめることで、我々が普段行っているデザイン行為を可視化し、その重要性を伝える手がかりになる。この数年、ビジネスにデザインを乗せる必要がある、という考え方を持っていたけれど本来はむしろ逆だった。本質的なデザインをしていくには、「ビジネスをする」という発想が必要だったことに気づいたわけだ。

「そんなの当たり前でしょ」「黙々と作っていればきっとわかってもらえる」ではなく、デザインのありようを周囲にわかってもらうための努力が、対価の向上、ひいては労働環境の改善やサスティナブルな仕事への流れをつくっていくのではないか。僕は、これがきちんとわかっていなかった。いちデザイナーとしては「(有形無形に関わらず)作ってナンボ」であることにかわりはない。けれど、社会の中のデザイナーという役割で言うならば、デザインの価値をデザイナー以外に伝える努力こそがビジネスであり、自分たちの未来をつくることでもあるのだ。

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