notes

デザイナーであろうとすること

2017年度になった。ここ最近再確認したことがあるので、自分を省みる機会として書いておきたいと思う。

僕は、この春でデザイナーとして満10年やってきた。就職前にも誰かのためにモノを作ったり企てたり、組織になってみたり、それで対価をいただいたりもしてきたので、自称デザイナーとしては15年になる。Adobe歴も15年だ。意識していることや教訓は山のようにあるけれど、その中のひとつをまとめてみたくなった。


個でいられるかどうか

人間、ひとりでは生きていけない。あたりまえすぎる事実だけれど、僕たちは社会の歯車(これは肯定的な意味)であるし、誰かにとっての何かの役割や立場を持っている。そして、それは多面的で流動的なもの。僕の最近気に入っている言葉に、「流されるな、流れろ」というのがある。これもそんな、関係性の海の中の自分、というものを考えさせてくれるので好きだ。

そんな中で、「個でいられるかどうか」ということをいつも意識している。

決して、まわりとの関係性を無視しろとか、個性的であれとか、そういう意味ではない。「自分を偽らない」というのが一番端的な言い方になる気がしている。

個としてふるまうこと

「自分を偽らない」というのは、「自分のキャラを認める」そして「隠さない」「いかにそのキャラを人に打ち明けるか」ということだと思っている。なんでもかんでも発言するとか、相手を顧みずトゲを立てるとか、そういうことではなくて、相手のフトコロに、お互いにとってよい形でおさまる、というような意味として考えてほしい。

冒頭で挙げた「流されるな、流れろ」に当てはめてみる。「流される」とき、人は自分自身の境界を失って曖昧になってしまったり、意図せず無理をして、虚栄や理想を演じてしまったりする。つまり解離している。一方「流れる」とき、人は自分の形を保ちながら、周囲を認めて受け止めながら、流れの行先を見つめているようなものだと思っている。

なぜ個が必要なのか

プライベートにも言えることだけれど、主に仕事の話として書いていきたい。

僕はデザイナーとして生きている。たぶんもう、他の生き方はできないんじゃないかとすら思っている。そしてデザイナーである自分が、どんな役割を果たし、どんなことをまわりにしていくべきなのかということは、常にうすぼんやりと考える。

主にお客さんに対して自分がパフォーマンスを発揮するべき時というのは、たいていは「初訪」、つまり初対面でヒアリングをする時や、プレゼンの場になる。そんな時、自分は相手=顧客にとって医師でもあり、講師でもあり、未来の仲間でもあると思う。


いきなり話が変わってしまうけれど、僕は新人の頃、いつも作り笑いでまわりの目を伺っては、ミスばかりしていた。これまではやれたことができない。思ってもいないことを口走る。できもしないことをできると言い、できることをできませんと言った。つまり、完全に自分を見失っていた。プレッシャーを過剰に受け止め、うまくまわらない日々を過ごしていたと思う。最初の2、3年はずっとそうだった。ほぼ失敗しかしていなかったし、日曜の夕方になると恐怖で手が震えた。そもそも自分というものについて考えたこともなかったし、個性的とか、自分らしくという言葉はむしろ嫌いだった(これは今もそうだ。というか全部今でもそうだ。まったく克服できていない)。


話を戻すと、相手に対してデザイナーとして振る舞う、そういう立場を担うということは、「仲間になる」ということだと考えている。別に精神論とかそういうことではなくて(僕はONE PIECEが苦手だ)、もっともらしく言うなら、あまりにも正論過ぎて歯が浮いてしまうけれど「課題解決のためのパートナーであろうとする」というふうに受け取ってもらったほうがいいのかもしれない。

目の前の「クラスタの違う」人と共同戦線を張るということ。正直言って難しい。気を許した旧友ならともかく、初対面だったり、ビジネスの場であったり、組織対組織として対峙しているとき、そういう関係性が作れるのかといつも悩む。名刺交換しただけで相手のことがわかったらどんなに楽かといつも思う。今でも。

けれど、自分を偽らずにいることは大切だと繰り返して書いておきたい。

「わからない相手を認め」「その上で自分をさらけ出す」ということが自分を偽らないということなのかもしれない。デザインにおいて、クライアントはお客様であり発注者であり、ある意味絶対だ。けれど、その相手と対面で受け答えするのではなく敢えて横並びになり、デザインを一緒に試みていくことができないか。そういう関係性をつくろうとした時、組織の一員でもなく、受注者でもなく、クリエイターでもなく、もしかするとデザイナーですらなく、いち人間として接することが必要なんじゃないかと思う。

ひとことで言えば「自分のキャラをいかに早い段階で出すか」ということ。距離の詰め方も難しいし、失礼があってもいけないし、踏み込みすぎてもよくない。でも、そこで自分をありもしないキャラクターで演じるのではなく、自然な姿で接する、言い換えれば、その場を自分ごととして受け止めるということが「自分を偽らない」ということなんじゃないかと思う。

個の時代から組織の時代になり、また個の時代にすでに移り変わっている。社会のしくみの中においても、「あなた」が必要であり、「私」が求められている。

試される自分

自分を偽らない、個であり続けるということは、相手を見ずに気ままに振る舞うこととも違う。相手を見て、それに対する自分の反射・反応を、できるだけ素直に、相手が受け取りやすいかたちで返すということだ。口を閉ざして愛想笑いを浮かべていれば、問題は起こらない。もっともらしいことを議事録に残し、その場を終えることができたらビジネスパーソンとして優秀なのかもしれない。

しかし自分を偽らずに相手と接するというのは、肩書や所属に守られていない自分そのものを相手に見せてしまうということでもあるし、それはそのまま、自分自身が試されるということにもなる。相手を試すのではなく、自分自身が試されているのだ。

デザインはビジネスだ。ビジネスとしてデザインを志向することが求められている。でも、これはそれ以前の本質的な話ということになる。哲学とか、思想とかの話だ。

発言が噛み合わなければ、悪印象を与えれば、次はないかもしれない。けれど、そこで敢えて一歩踏み込む。「私はこう思います」「このほうがいいかもしれない」「それは間違っている可能性がある」「私はそれがいいと感じる」ということを、自分の言葉で相手に返す。それが相手に届いたとき、うまくいけば相手自信の言葉が返ってくるかもしれない。それに賭けて、自分をひたすら見せ続けることが大切だと思う。

個として向き合うことで得られるもの

自分の言葉を出していくと、いつか相手も自分の言葉で返してくれる。もしかしたら肯定的な言葉ではないかもしれないけれど、それを待つ。潜在的な課題…つまり悩みは、いつも不明瞭で見えにくい。

それをすくい上げるには、客観視と同時に、それを自分の問題として扱う想像力が必要。「自分ごと化」というやつがそれだ。親身に相手の話を聞いて、それに素直に反応する。すると、気がつくとその悩みがお互いの間に立ち現れてくる。その“うすもや”を具体化するのは、ただの手法の話でしかない。ツールや、技術、フレームワークだ。本質はそこではなく、“うすもや”のほうなのだと思う。ツールや技術の話は、プロとしてあたりまえの自己研鑽でしかない。

“うすもや”をお互いのものとすることができれば、いわば後は「やるだけ」になる。課題の発見というともっともらし過ぎて机上の正論にしか聞こえないけれど、その本質的な課題、“うすもや”を見つけることがいかに難しいかは、デザイナーとして生きている人にはきっとわかってもらえるのではないかなと思っている。

ちょっと感覚的が過ぎる話になってしまったけれど、自分を偽らずにおくと、それがまわりまわって自分に返ってくるし、その相互作用で本質的な悩みをお互いの共通課題としてうけとめることができるということが言いたかった。RFPという意味ではなく、その背後にあるもの、まだお互いが認知できていない定性的なものが見えてくる。それには、まず自分自身の踏み込みが必要なんじゃないか、ということだ。


弱い自分を認める

これまで長々と書いてきてしまったけれど、結局言いたいことはシンプルだ。「自分を偽らずにいる」ということ、自分のキャラをいかにはやく出してしまえるかということに尽きる。

もしかすると、デザインという行為は、第三者として見つめた悩みを自分ごととして取り込み当事者になってしまう、ということなのかもしれない。

なんという重たい作業だろう(笑)。もうそれは生き方の話じゃないか。本当に参ってしまう…。正直、できていない。これまでくどくどと書いてきてしまったけれど、僕自身できているのかと問われれば、今も試して、悩んでいるとしか言えない。まったく満足にできていない。人のことなんて言えないわけだ。教育どころの騒ぎじゃない。まだプレイヤーなのだ。まだまだレベルアップしたいのだ。

難しい。本当に難しい。僕は善人でも人徳者でもないし、むしろ下手で子供で、いつも失敗ばかりしている。新人のころと本質的にはまったく変わっていない。ちょっとずるくなって、ちょっと好い加減になっただけだ。

でも、それを隠さず、かといってむやみにさらけ出すのでもなく、素直に出していくということ。もう修行のようでどうしたらよいのかわからなくなるけれど、そうやって自分の弱さを認める、認めようとすることが、まわりまわって相手のことを想像することになり、デザインをするということになるんじゃないだろうか。これは綺麗事ではないのだ。

うまくいくときは、たいてい個でいられたとき

ある程度、腑に落ちた・納得できた(満足という意味ではない)仕事を振り返ってみると、スタンスはいろいろでも、結局は「自分を出せた」ものが残ってくる。これは経験的なもので、明確な理屈はないのだけれど、本当にそうなのだ。

アウトプットはプロセスによって作られる。プロセスは重要だ。でも、プロセスはあくまでアウトプットのためにあるもの。プロセスが目的化したらそれはデザインではないと僕は思う。個であることが、プロセスの始まりであり、つまりはアウトプットでもあるのだと考えている。

自分のキャラクターを偽らないこと。雑に生きるのではなく、誠実さを保ちながら、自分との折り合いをつけていくこと。自分でもいつも難しく、満足に達成できたことはない。けれど、物事がうまくいくときは、大抵自分を出せたとき。こなすのではなく、向き合う。そういうことが必要なんじゃないかなと思った。


これが精神論ではないということが伝わるだろうか。いや精神論なのかもしれない。けれど、とても重要で確かなものだということは確実に言える。 僕は人と話がしたい。生きていることがようやっと感じられる。それが僕にとってのデザインという行為だと考えている。

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