notes

正解のない世界を生きる勇気

最近、このブログもぱたりと書けていなかった。忙しいというよりゆとりがないなあ。正しい仕事と正しくない仕事を両方やりたいのだ。そしてそれには、体力がいるのだなあ。


エイト・グレイと灰色の世界

「答えを求めない勇気」大仲千華 Vol.1 紛争後の南スーダンで兵士たちから学んだ「答えのない状況に耐える力」 | クーリエ・ジャポン

この記事を読んで、以前も書いた『エイト・グレイ』を思い出した。

現代美術の巨人ゲルハルト・リヒターの作品。まったくの灰色としか言いようのないなんともいえない濃度の、そして均質なグレーの面が、ガラス層におおわれ、巨大なモノリス状に8枚、円形の展示室に並んでいるという作品だ。
ガラスだから、見る人はその作品に映り込む。世界=環境といっしょに自分が“映り込み”として灰色の世界の中に投影され、みせつけられる。世界は圧倒的にグレイなのだ。すくなくともリヒターは、灰色の世界に生きている。
はじめ何もわからなかったし、今もわかっているのかはよくわからないけれど、そのときまさにマンガみたいに「ドーン」と横殴りされたような間隔を覚えた。その日、帰宅前に軽く酒を飲みながら泣いて感想を語った記憶がある。10年以上前の話。今も僕の価値観に強力な影響を与えている体験。

答えに飛び付きがちな私たち

人間、答えに飛びつきがちだ。なぜなら、「わかった気になる」と、「自分が落ち着く」からだ。わからないという感情は自分自身を曖昧にさせるし、どこかすわりが悪い。
選挙や政治にしても、デザインの話にしてもそうだ。どう考えても泡沫候補にみえる極端な人が人気を博したり、いつまでも消えなかったりする。デザインにしても、ついつい「案は3つ、いつ出せるか」「じゃあどっちの案がいいのか」「ここの色を変えれば」みたいな話になりがちだ。

非実在正義と不確かな生活

僕もふくめて、みんな、実在しない正しさを追って生きている。そのエネルギーが世界をここまで押し進めてきた。正しさは自分を落ち着かせ、(とりあえず)物事を進める。
一方グレーは場を落ち着かせ、受け止める余地を残す。僕は、この世界に絶対の正解はないと思う。唯一神が複数いるように。学生時代に、多神教的アニミズム文化の日本的美観こそが、これからをつくっていくのだ〜という恥ずかしいレポートを書いたが、今思えばそれすらもひとつの考えに過ぎなかった。メタ的になるけど、「正解がある」という解もあるし、「正解は出せない」という解もまた、ある。
絶対解がなく、答えは出ず、ゴールもどこなのかわからない。でも明日はやってくるし、おなかは減る。ジンセイはツライのだ。


複雑系の世界

透明になれない編集と不透明なデザイン

複雑系という概念がある。それについてはここでは語らないけれど、現代、物事は絡み合い、複雑だ。あまりにも複雑すぎる。ものごとを簡単(かのように)に理解するには、そこに編集が加わる必要がある。
IAとよばれるような概念が浸透してきているけれど、たとえばインフォグラフィックス、あれには制作者のクレジットを明記する必要があるという人がいる。
要は、インフォグラフィック制作自体が編集行為であるから、その出元を明記することで、そもそもそれが編集されたもの(恣意的なもの)であることを表明しつつ、公平性を担保しようということみたいだ。

昔…15年ほど前の日本のデザイン界には「デザインは透明であるべき」という考え方が席巻していた。制作者の意図や恣意性は限りなく消え去り、本質からうまれる色や形のみが表れてくるべきだ、という考え方。それこそが先の日本的価値観に近いものだと思うんだけど、これもやはり、今思えば、透明なデザインなんて存在しないと言える。それこそがひとつの思想だからだ。透明なデザインなんて存在しない。
白いデザインというのもまた、流行った。それは、透明を一歩進めて、現実により即した概念だと思う。透明化を諦め、「私は白くありたいのです」と言ってしまったわけだから。気取っているといって嫌うひともいるけれど、スタイルとしてはともかく、人間らしくて僕は嫌いになれない。尊重したい。それでもあくまで、「ひとつの概念」なのだ。

不透明度を越えたところ

そう、これはモダンでもポストモダンでもない地平であって、言うなればスペキュラティブな視点と、それを社会や経済、特に半径数メートルの距離に接続する真摯さ・泥臭さが必要とされているんじゃないか、と思っていたりする。デザイナーという職業が、マス広告を扱う大先生から、商店街を楽しくする兄ちゃん姉ちゃんへと変わってきているように思うのだけど、それはこういうことだったのだと思う。


社会のなかのフィルターとしての自分を消さずに生きる。

ここまで書いてきたことは、これに尽きる。

社会、つまり実体のあるようでないマスなものよりは、「実際にわかる」範囲の課題解決、そして問いの創出をしていく。そのためには、不透明なフィルターであり、何かと何かのインターフェイスである自分という存在を肯定して、自分が灰色であることを許容する。完全でいることは不可能だし、不完全を許容するしか生き伸びる道はないのじゃないだろうか、と思う。

いいかげんでもいいのだ。間違っていてもいい。生きていればいい。たとえグレーでも、それを受け止める勇気を持ちたい。かっこよくないけど、正しくないけど、生きていける。続けられる。そういうことを大切にしたいし、体現したいと思う。


人間、生きてりゃ儲けもん、と言った人がいた。
まったくよく言ったものだ。

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